プライベート・オジサン

30代半ばにして日本の戦争歴史に興味を持ったオジサン二等兵による(学習)戦記

始まりのきっかけ:松代大本営跡地を訪れる

2019年9月に法事のため奥さんを連れて長野に帰省した。
2泊3日で、2日目に法事自体は終了し、3日目は東京に戻るバスが夕方4時頃なので少し時間が空いていた。
自分は高校を卒業してからすぐに東京に出てしまっていたのであまり大人が楽しめる場所を知らず、兄や親に、どこか面白い場所はないか訪ねた。
戸隠、松本、上田・・・いろいろと候補が出たのだが、時間などの都合からあまりピンと来るものがなかったのだが、兄が「松代の象山神社はどうだ?」と紹介してくれた。
この時初めて知ったのだが兄は実は歴史が好きらしく「近くの松代大本営もおもしれーぞ」と言っていろいろ話してくれた。(兄とは仲が悪いわけではなく歳が10離れていることもありちゃんと膝を付き合わせて対等に話すようになったのは割と最近である)

たしかに車なら近いし自分も興味が湧いたのでそこに行くことにした。

象山神社

当日は母親と奥さんと自分の3人で出かけて、像山神社を最初に訪れた。
像山神社は「佐久間 象山」という、のちに明治維新で活躍する幕末の志士たちを教え子に持った、偉大な学者を祀った神社だった。
象山神社トップページ

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境内には教え子である坂本龍馬勝海舟など誰もが知る明治維新の立役者たちの胸像が並んでいた。
観光客の姿もちらほらあったので、きっと幕末が好きな人にとってはたまらない場所かもしれない。

ちなみに昔は今ほど綺麗に整備されていなかった上にあまり世間的にも有名ではなかったらしく、象山神社を教えてくれた兄は、高校生のころよく授業をサボってこの神社で過ごしていたらしい。

松代大本営跡地へ

象山神社のほど近くに、松代大本営跡地(松代象山地下壕)があった。
入り口近くには歴史館があり、そこに車を停めるとちょうどこの跡地についての解説が始まるというので、一緒に居合わせたご家族と一緒に資料館の中で解説を聞いた。
どうやらいつも解説員のおばちゃんが駐在しているらしい。

「歴史館・松代」歴史館

解説は約10〜15分ほどでテンポよく話してくれた。
その解説の内容はだいたい下記だったと記憶している。

  • そもそもこの松代大本営とは、本土決戦の拠点として防衛上の理由から大本営(日本軍の中枢)、各省庁、そして天皇陛下の御座所を、東京から松代に移す目的で作られた地下壕
  • 工事が始まったのは終戦近くの1944年11月
    • すでにこの時敗戦するのは分かっていたらしい
    • 松代が選ばれた理由は地盤的な面や近くに飛行場があるなどの地理的に有利な面もあるが、信州(長野の別名)-> 神州に通じるからという面もある
  • 約6000〜1万人が働いたが、その大多数が当時植民地から強制的に連れてきた朝鮮の人たち
  • 削岩機で穴を掘り、その中にダイナマイトを仕掛けて爆発させて岩を掻き出すというシンプルな方法
    • 削岩機は3人ひと組みで持った(削岩機の先端棒を持たしてもらったが、かなり重さだった)
    • 岩は複数ある出入り口から捨てて、その岩を当時の小学生など子供たちが草で覆って隠していた
  • 劣悪な作業環境で、300人〜1000人以上が亡くなったとされているが、そのうち名前が分かっているのはわずか4名
    • 食事は 米3割・コーリャン(中国産のモロコシ)7割の割合でまぜたものが主食。コーリャンは栄養が少ない上に消化が悪いため、作業員たちは常に下痢だったらしい
    • 作業中は鞭を持った監視員(日本人)がいて、手を休めると鞭で叩かれた
    • 寝ていて、具合が悪く唇が紫色になって起きれない状態でも、布団の上から水を被せられて「死ぬまで働け」と言われていた
    • 寝床は簡素な作りで、みんな一本の大きな丸太を枕として寝かされていた。なぜ一本の丸太か?起こす時をそれを蹴飛ばしたり叩いたりすれば、一度にみんなその衝撃で起きるから
    • 作業員は何グループにも分けられていて、1日に何m進めるか競い争わされた
  • 終戦して工事が終わったとき、全体の工数の8割が完成していた(わずか9ヶ月間で10kmにおよぶ突貫工事を行った)
    • 工事が終わったとき強制労働させられていた人たちは歓喜に湧く一方、松代にいる日本人たちは、朝鮮人の報復を恐れた。しかし報復を行うことはなく、むしろその中の一人が「報復はしないから大丈夫」と周りに伝えに走ったという

口頭で説明された以外にも、慰安婦に関することとか多数の資料が展示されていたが、母親と奥さんをあまり待たせるわけにもいかず全部は見切れなかった。
ちなみに館内は写真撮影禁止。

歴史館を出て、ヘルメットを被っていざ中へ。
中はほんの一部が公開されているだけだが、500mほど歩く。
公開箇所は管理組合が整備してくれているので、足が悪い母親も杖をつきながら歩くことができた。(道中、車椅子を押している方もいた)
中の空気は冷たく、真夏日だったが半袖だと時間が経つと寒く感じるほどだった。

雰囲気だが、とても生々しかった。
壁や天井は岩が切り立っていて、これ以上進めないように設置されている金網の向こう側には大きな岩がごろごろと転がっていた。
コウモリも飛んでいて、まさにRPGゲームに出てくるような洞窟という雰囲気だった。

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公開されているところは整備されているので比較的歩きやすかった

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金網の隙間から撮った地下壕の奥

数年前に母親が東京に来た際に、はとバスツアーで館山市の赤山地下壕に入ったことがあるがそこよりも生々しいと母親も言っていた。 壁には、削岩機の先端跡が無数にあり、多数の人が命を落とした過酷な環境だったいうのがひしひしと伝わってくるようだった。

出た後には慰霊碑にお祈りをした。

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入り口には慰霊碑と「不戦の誓い」という石碑があった

松代大本営跡地を訪れてみて思ったこと

「なぜ日本は敗戦すると分かっていたのに、こんな無茶苦茶な工事を莫大な人手や予算を使って推し進めたのか。朝鮮の人たちを強制労働させて、ただ恨みを生んだだけではないのか。」
そんな疑問が湧いたのが、戦争についてちゃんと知ろうと思ったきっかけである。

日本人が朝鮮の人たちにどれだけひどいことをしたかということを知り、現代において嫌われるのも、以前よりも理解できるようになったと感じている。
しかしこの一面だけで決めつけるのも良くないとも感じる。
日本側からの視点、朝鮮側からの視点、それまでの歴史的な背景を理解しないと、正しい判断ができないように思う。
ひとつの視点で全てを決めつけるのは、どんな場面においてもNGである。
やはり歴史を学ぶことは、現代、そして未来を考えることで非常に大事だと今更ながら痛切に感じている。