プライベート・オジサン

30代半ばにして日本の戦争歴史に興味を持ったオジサン二等兵による(学習)戦記

シベリア抑留体験者 成田富男さんのお話を聞いて

去る11/17(日)に平和祈念展示資料館へ行き、語り部お話し会に参加した。
平和祈念展示資料館には先月初めて行って、その際にメルマガ登録をしたのだが、その後に今回の語り部お話し会の案内メールをもらった。
語り部お話し会とは戦争体験者から当時の様子などを語ってもらう催しで、毎月第三日曜日に行なっているようだ。

考えてみると、自分の祖父以外の方から直で戦争の話を聞いたことはあまりなく、あと数年〜十数年もすればほとんどの戦争体験者は亡くなってしまい、直でお話を聴く機会はそうないのではと思う。
そう思うと、行かなければ!という思いに駆られて参加した次第である。

ちょっとした新発見

14時から始まりだったのだが、少し早めに着いたので常設展示を見て回った。
前回初めてきた時に三時間くらいかけてじっくり見て回ったのだが、いろいろと新発見があった。

千人針と千人力

ひとつが千人針と、千人力。
どちらも出征される兵士の方へ無事や健闘を祈り贈ったものだが、下記のような意図と違いがある。

  • 千人針
    • 女性たちが贈ったもの
    • 縫い玉は「弾を止める」という願掛け
    • 虎の絵は虎が「千里行って千里帰る」という故事にちなむ
  • 千人力
    • 男性たちが贈ったもの
    • 自分たちの「力を貸す」という願掛け

これまで千人力は女性も書いていたと勝手に思っていたが、女性と男性でそれぞれ分けて贈っていたようだ。

陸軍軍服の質が低下した時期

陸軍の軍服は戦争初期と比べて後期は、物資や人手不足から素材や製法は低下したのだが、その時期がちゃんと分かっていなかった。
展示には1943年(昭和18年)と書かれていた。

ちなみに1943年は太平洋戦争ではどんな出来事があったか調べてみると

といったことが起きていた。 詳細:太平洋戦争の年表 - Wikipedia

余談だが、西暦 <-> 昭和に換算するのが難しいときは、西暦の下2桁を25を引けば昭和になる。1943 - 25 = 18

電鍵

モールス信号の打つ際に使われる機器は電鍵(でんけん)というらしい。
子供の頃に天空の城ラピュタで見たのが記憶に残っている。
(余談だが、ラピュタのモールス信号はきちんと意味があるらしい:
空中庭園と幻の飛行船: 『天空の城ラピュタ』のモールス信号は解読すると○○の意味になる!

シベリア抑留が行われた背景

1941年6月に独ソ戦が開始。
ソ連では2000万人以上の死者が出て、国土は荒廃し労働人口が減り、ドイツ人、ポーランド人の捕虜を抑留して強制労働させた。
第二次世界大戦末期からソ連アメリカが対立し、ソ連は極東方面へ軍備の開発や警戒を強化した。
この中で樺太南部や千鳥列島を占領し、満州朝鮮半島に侵攻した。
そして日本が降伏し武装解除すると、「ダモイ(帰国)」と言って日本兵を列車に乗せると、帰国させずに、労働力を補うためにシベリアやソ連の各地に送り込んで強制労働させた。

 
 
 

とここで、語り部お話会が始まるアナウンスが入ったので会場(ビデオシアタールーム)へ移動。

成田富男さんのお話

会場には小さい子供連れの家族から、若いカップル、自分と同じくらいの30代くらいの方、ご年配の方など幅広い年齢層の人たちが集まった。
冒頭では進行役の方が成田さんのプロフィールなどを紹介した。
プロフィールは下記に掲載されている。 www.heiwakinen.go.jp

成田さんが登場すると拍手が起きた。89歳とのことだったが、終始大きな声だったし、自ら立ち上がったり座ったりしてお話されていてとても活力に満ちていた。
お話は、成田さんが自分の体験を自分で描いた紙芝居をスライドに写しながら司会進行役の方がお話を振って、成田さんが語るという形で進められた。

成田さんは、満蒙開拓青少年義勇軍の一員として15, 6才の頃の内原訓練所へ行き、その後満州へ渡った。
※日本では「義勇軍」と呼ぶが、中国では関東軍があるため「義勇隊」と呼び名が変わるらしい

そして終戦後、ソ連軍によってシベリアのセレトカンへ移送。
そこでは主に馬や豚などの家畜の飼育係をしていたとのこと。
というのも周りの日本人はほとんどが二十歳以上の大人で、森林伐採などは厳しいノルマがあったので大人たちが代わってくれたそうだ。
(雪がない時期)野原では鹿がいたりモグラが顔を出したり、魚を釣ったりして「なんていいところだろう、なんで日本は戦争なんかしているんだろう」と感じたそうだ。

のどかでも厳しい寒さについては、凍傷にかかった際に慌ててみんなが揉んでくれて助かったエピソードも話してくれた。

あるとき、満州の言葉もわかるし、黒竜江は(凍っているので)歩いて渡れるからなんとかなると行って先輩が脱走を図った。
しかし雪の中の脱走は高台からすぐにバレて、撃ち殺されてしまった。
埋葬した際に、お供えするものがなくて、雪玉を作って供えたそうである。。

風呂には8月〜4月の間で2回しか入れなかったとのこと。
風呂といっても浴槽があるわけではなく、桶に1杯の湯があり、それと粉石鹸などで体とかを洗い、もう1杯の湯で流したそうだ。

ここで自分は、祖父との思い出をひとつ思い出した。

自分が小学3年生の頃、自分は母の連れ子としてに今の父親の家に養子として入った。
そこの祖父は自分を本当の孫のように可愛がってくれて、中学生になるまでよく一緒に風呂に入って、戦争の話を聞かされていた(あまり内容を覚えていないが…)。

祖父は戦時中は憲兵として満州チチハルに出征していたらしい。
7年前に94歳で他界した際に、父親が見せてくれたアルバムに写真があったので一応証拠として貼っておきたい。

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昭和19年1月22 チチハル憲兵隊にて」と記されている

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(もっと他にもいろいろあるんじゃないかと今は思っているので、また帰省したら聞いてみよう)

その戦争の体験からか、一緒に風呂入った時に毎回お湯を大事に使えと言われ、体を洗うときは湯桶に一杯だけの湯を貯めて、それを使って洗うように教えられたことを、この成田さんの風呂の話を聞いた時に思い出したのだ。
そして泡を洗い流す時も、一杯だけの湯で洗い流すことも教えられた。まさにこのことだったのだ…!

もう20年以上も昔のことだが、そのことははっきりと思い出すことができる。
なんだがこうして昔の祖父の思いを今ようやく理解できたことがなんだか嬉しく思う。
帰省して線香をあげる際に報告しよう。

・・・

話がそれてしまったが元に戻そう。

成田さんはその後、遠く離れたオレンブルグの収容所へ移送される。2日以上列車に乗っていたそうだ。
ここでは建設現場で働いていたとのことだが、飢えはなかったらしい。

若さもあって怖いもの無しだった成田さんは、建設現場で出た廃材をいろんなところで売り歩いたそうだ。
廃材は当時燃料として貴重だったから皆買ってくれたそうで、稼いだお金でパンを買ったりしてそのときはほとんど飢えはなかったという。
あるとき、いつも廃材を買ってくれる奥さんがおらず代わりに旦那が出てきた。
その旦那がなんと警察だったので、成田さんは持っていた荷物を放り投げて一目散に逃げた。
しかし実際は捕まえたとしても(今まで廃材を買っていた)奥さんまで捕まってしまうから、捕まることはなかったそうである。

また成田さんはどうせなら友達を作った方がいいやと考えて、ロシア語を覚えて、(富男という名前だから)トーリャというあだ名をつけてもらうほどロシア人と仲良くなったそうだ。

そしてついに帰国となったとき、帰国の船内(たしかナホトカから京都府舞鶴港までの間だったと思う)では、日本酒と日本料理が振舞われたそう。
当時そんな豪華なものが出たのはかなり珍しいケースらしい。
日本酒なんて生まれて初めて飲んだ成田さんは、うまいうまいと飲み、日本酒が飲めない友人の分まで飲み(合わせて2合)日本料理に一口も口をつけずに朝まで酔いつぶれてしまったそうだ。食べそびれたことをとても悔しそうに話していて、会場は笑いが起きていた。

帰国後は、大阪で物売り(営業?)の修行をしたのち東京へ行き、40代まで20数年間サラリーマンとして働いたそう。
そのサラリーマン生活も、全国あっちこっち物を売りに飛んで、商売とったもん勝ちだったからとても楽しかったと語っていた。

司会進行の方も「シベリアの苦しさや辛さがあまり伝わってこない」と笑っていて、それに対して成田さんは「ぼくの性格なんでしょうね」と笑顔で答えていた。
最後に何か伝えたいことはありますか?と聞かれた成田さんは、「何でもやればできる。そして楽しむ。」 と答えていた。
そして最後にまた面白エピソードを聞かせてくれて今回の語り部お話し会は終了した。

もしかしたら自分の記憶違いで間違っているところがあるかもしれないが、録音や写真撮影は禁止だったのでご了承いただきたい。
(取材の「PRESS」という腕章をつけた方もいたので、もしかしたらどこかでちゃんとした記事になるのかもしれない)

まとめ

何はともあれ、今回初めてお話会に参加してとても良かった。
周りの仲間が死んでいく過酷な環境の中でも楽しみを見つけて乗り越えていった貴重な体験談を直接聴けたのはもちろん、成田さんの明るさになんだか元気をもらった。
成田さんが経験した苦境に比べれば自分たちはどんなに恵まれた環境かと思う。
何でもやればできる。そして楽しむ。」という成田さんの言葉を忘れずに、自分もこれからまた頑張っていこうと思う。
そしてこのような貴重な体験談を自分の周りにも伝えていくことが、私たちのすべきことだとも思う。

来月の語り部お話し会は、もう少し重めな(?)つらい体験の内容とのこと。
残念ながら来月は予定があるので参加できないが、行ける人はぜひ行ってみると良いと思う。

「人間は過去を見てしか前に進めない生き物だ」という言葉を聞いたことがある。
まっすぐ前に進むには、ボートを漕ぐように、曲がっていないか後ろつまり過去を見ながら進む必要があると。 同じ過ちを繰り返さないためにも、未来へ進むためにも過去を知ることは大切。

始まりのきっかけ:松代大本営跡地を訪れる

2019年9月に法事のため奥さんを連れて長野に帰省した。
2泊3日で、2日目に法事自体は終了し、3日目は東京に戻るバスが夕方4時頃なので少し時間が空いていた。
自分は高校を卒業してからすぐに東京に出てしまっていたのであまり大人が楽しめる場所を知らず、兄や親に、どこか面白い場所はないか訪ねた。
戸隠、松本、上田・・・いろいろと候補が出たのだが、時間などの都合からあまりピンと来るものがなかったのだが、兄が「松代の象山神社はどうだ?」と紹介してくれた。
この時初めて知ったのだが兄は実は歴史が好きらしく「近くの松代大本営もおもしれーぞ」と言っていろいろ話してくれた。(兄とは仲が悪いわけではなく歳が10離れていることもありちゃんと膝を付き合わせて対等に話すようになったのは割と最近である)

たしかに車なら近いし自分も興味が湧いたのでそこに行くことにした。

象山神社

当日は母親と奥さんと自分の3人で出かけて、像山神社を最初に訪れた。
像山神社は「佐久間 象山」という、のちに明治維新で活躍する幕末の志士たちを教え子に持った、偉大な学者を祀った神社だった。
象山神社トップページ

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境内には教え子である坂本龍馬勝海舟など誰もが知る明治維新の立役者たちの胸像が並んでいた。
観光客の姿もちらほらあったので、きっと幕末が好きな人にとってはたまらない場所かもしれない。

ちなみに昔は今ほど綺麗に整備されていなかった上にあまり世間的にも有名ではなかったらしく、象山神社を教えてくれた兄は、高校生のころよく授業をサボってこの神社で過ごしていたらしい。

松代大本営跡地へ

象山神社のほど近くに、松代大本営跡地(松代象山地下壕)があった。
入り口近くには歴史館があり、そこに車を停めるとちょうどこの跡地についての解説が始まるというので、一緒に居合わせたご家族と一緒に資料館の中で解説を聞いた。
どうやらいつも解説員のおばちゃんが駐在しているらしい。

「歴史館・松代」歴史館

解説は約10〜15分ほどでテンポよく話してくれた。
その解説の内容はだいたい下記だったと記憶している。

  • そもそもこの松代大本営とは、本土決戦の拠点として防衛上の理由から大本営(日本軍の中枢)、各省庁、そして天皇陛下の御座所を、東京から松代に移す目的で作られた地下壕
  • 工事が始まったのは終戦近くの1944年11月
    • すでにこの時敗戦するのは分かっていたらしい
    • 松代が選ばれた理由は地盤的な面や近くに飛行場があるなどの地理的に有利な面もあるが、信州(長野の別名)-> 神州に通じるからという面もある
  • 約6000〜1万人が働いたが、その大多数が当時植民地から強制的に連れてきた朝鮮の人たち
  • 削岩機で穴を掘り、その中にダイナマイトを仕掛けて爆発させて岩を掻き出すというシンプルな方法
    • 削岩機は3人ひと組みで持った(削岩機の先端棒を持たしてもらったが、かなり重さだった)
    • 岩は複数ある出入り口から捨てて、その岩を当時の小学生など子供たちが草で覆って隠していた
  • 劣悪な作業環境で、300人〜1000人以上が亡くなったとされているが、そのうち名前が分かっているのはわずか4名
    • 食事は 米3割・コーリャン(中国産のモロコシ)7割の割合でまぜたものが主食。コーリャンは栄養が少ない上に消化が悪いため、作業員たちは常に下痢だったらしい
    • 作業中は鞭を持った監視員(日本人)がいて、手を休めると鞭で叩かれた
    • 寝ていて、具合が悪く唇が紫色になって起きれない状態でも、布団の上から水を被せられて「死ぬまで働け」と言われていた
    • 寝床は簡素な作りで、みんな一本の大きな丸太を枕として寝かされていた。なぜ一本の丸太か?起こす時をそれを蹴飛ばしたり叩いたりすれば、一度にみんなその衝撃で起きるから
    • 作業員は何グループにも分けられていて、1日に何m進めるか競い争わされた
  • 終戦して工事が終わったとき、全体の工数の8割が完成していた(わずか9ヶ月間で10kmにおよぶ突貫工事を行った)
    • 工事が終わったとき強制労働させられていた人たちは歓喜に湧く一方、松代にいる日本人たちは、朝鮮人の報復を恐れた。しかし報復を行うことはなく、むしろその中の一人が「報復はしないから大丈夫」と周りに伝えに走ったという

口頭で説明された以外にも、慰安婦に関することとか多数の資料が展示されていたが、母親と奥さんをあまり待たせるわけにもいかず全部は見切れなかった。
ちなみに館内は写真撮影禁止。

歴史館を出て、ヘルメットを被っていざ中へ。
中はほんの一部が公開されているだけだが、500mほど歩く。
公開箇所は管理組合が整備してくれているので、足が悪い母親も杖をつきながら歩くことができた。(道中、車椅子を押している方もいた)
中の空気は冷たく、真夏日だったが半袖だと時間が経つと寒く感じるほどだった。

雰囲気だが、とても生々しかった。
壁や天井は岩が切り立っていて、これ以上進めないように設置されている金網の向こう側には大きな岩がごろごろと転がっていた。
コウモリも飛んでいて、まさにRPGゲームに出てくるような洞窟という雰囲気だった。

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公開されているところは整備されているので比較的歩きやすかった

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金網の隙間から撮った地下壕の奥

数年前に母親が東京に来た際に、はとバスツアーで館山市の赤山地下壕に入ったことがあるがそこよりも生々しいと母親も言っていた。 壁には、削岩機の先端跡が無数にあり、多数の人が命を落とした過酷な環境だったいうのがひしひしと伝わってくるようだった。

出た後には慰霊碑にお祈りをした。

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入り口には慰霊碑と「不戦の誓い」という石碑があった

松代大本営跡地を訪れてみて思ったこと

「なぜ日本は敗戦すると分かっていたのに、こんな無茶苦茶な工事を莫大な人手や予算を使って推し進めたのか。朝鮮の人たちを強制労働させて、ただ恨みを生んだだけではないのか。」
そんな疑問が湧いたのが、戦争についてちゃんと知ろうと思ったきっかけである。

日本人が朝鮮の人たちにどれだけひどいことをしたかということを知り、現代において嫌われるのも、以前よりも理解できるようになったと感じている。
しかしこの一面だけで決めつけるのも良くないとも感じる。
日本側からの視点、朝鮮側からの視点、それまでの歴史的な背景を理解しないと、正しい判断ができないように思う。
ひとつの視点で全てを決めつけるのは、どんな場面においてもNGである。
やはり歴史を学ぶことは、現代、そして未来を考えることで非常に大事だと今更ながら痛切に感じている。